iTunesの同一アーティストがまとまらない(バラバラになってしまう)問題の解決

表題の問題に悩まされており、ググってもいまいち解決策が見つからなかったのだけど、試行錯誤していたら直ったので備忘録的にメモ。

最近入れたアルバムによく起きる現象だった。理由はよくわからない(ID3タグ?の問題?不明)

「アーティスト」で表示した時に、同一のアルバムアーティストのものなのに、バラバラに表示されてしまう。ひどい時は1曲ごとに1つのアーティストとして表示されてしまう。

 

試行錯誤の過程は面倒なので省くが、次の手順で無事直った。

 

1. バラバラになってしまった(統合したい)アーティスト名で検索し、アルバム表示ではなくフィルタによって全曲を表示させる

2. アルバムごとに曲を全選択し、アルバムアーティストに適当な文字列を加える

3. 2の作業を全アルバムに対して繰り返すと一つにまとまる(ダメだったら何度もやる)

4. アルバムアーティスト名を戻す

 

ポイントは、アルバムごとに直すことと、アルバム表示ではなくあくまでもアーティストor曲表示の状態でいじること(アルバム表示にすると正常に見える)、一旦別の文字を加えること。いっぺんにやってた時は全然直らなかったけど、この方法で直った。

たぶん、アルバムアーティストを、複数アルバムを選択した状態でいじるとバグるということなのではないか……という気がしている。

創造工房の「偽装結婚式」みてきたよメモ

何日か経っちゃったしメモ書き状態なんだけど、このまま放置するとまたお蔵入りしてしまうので、一旦放出。あとから文章はちゃんと整えるかもしれない(し、しないかもしれない)。

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昨晩、友人たちの出演している芝居を観てきた。
観ている途中からもう面白さで頭の処理速度が追いつかず、上演が終わってすぐに劇場を出て速攻で帰宅した。とてもじゃないが、顔を合わせて何か言えるような状態じゃなかった。
とにかく面白かったんだけど、何が面白かったのかをぐるぐる考えるのに忙しかった。帰宅して、1時間くらい色々メモして、わかったりわからなかったりして、それで一夜明けた今日もこうして書いている。

最初にもやもやと考えていたのは、自分が感じているこの面白さを、どうやってその友人たちに伝えたものか、ということだった。興奮していて冷静じゃないから、上演後すぐにアンケートに書いたり、ロビーで直接喋ったりするのは難しい。かといって、無理だから伝えない(あるいはざっくりと伝える)というのも微妙かなと思う。僕も雑誌やら企画やら論考やらを外に出したりすることがあるから思うけど、なんか一つやったら絶対そこにレスポンスが欲しい。どんな形であれ感想が欲しいと思う。だから何かしらは目に触れるところで書いた方がいい。だからまあこうして独り言というか自分用ノートっぽくメモすることにした。

別にレビューが書きたいわけでもないし、作品分析なんぞをしたいわけでもないので、結構素朴な言葉づかいをたくさんする。作品が面白かったということが言いたのではなく、この芝居をこんなに面白いと思った人がいますよー的なことが言いたい。この二つは切り離せないものではあるが、しかし別のことだ。
もしかしたら芝居とは本質的にそういうものなのかもしれないが、彼らの舞台は僕にとっては一つの作品である以上に一つのイベントというか出来事である。友人から直接案内のメールがきて、おーあいつも出てんのかとか、またこいつの脚本かー楽しみやとか色々考えて、2000円くらいまでならまあ出せるなーとか思いつつ予約して、普段使わない西武池袋線とかそういうのに乗ってって、着いたら初めての町を適当に歩く。これは一つの出来事であって、作品の消費という感じじゃない。消費と呼ぶには儀式的すぎるというか、作品それ自体を受け取るためにそれ以外のプロセスがたくさん必要になっている。そこが面白いと思う。あんま普段行かない町が多いしね。

高校のときの(つまり、特に理由もなく知り合った)友人が、それぞれの活動をしているのを見るのは妙な面白さがある。体育会の人の試合とかもたまに観に行くけど、やっぱり知り合いがいると楽しみ方が変わる。小劇場なんて友人から誘われなければ行かないから、それもまた物珍しくて笑える。狭さや舞台の近さもそうだし、舞台を区切ってシーンを分けたり、小道具をあれこれ使いまわしたりとか、そういう独特の制約と遊びが面白い。

何を楽しみに観るかは完全に好みだと思うけど、僕はやっぱり役者を楽しみに観ていることが多い。自分と同年代の、別にプロでもなんでもない、大学の授業とかで見かけたりしそうな普通の人が、舞台に立って芝居をして、所作や発話の積み重ねでキャラクターを立ち上がらせている。普段のキャラと演技のキャラクターがだぶって見えて、頭がクラクラする。人はこんなにも、その人らしさを保ったままで、その人ではない何かになることができるのか。自分とそう変わらない学生だという前提があると、そのギャップが生み出すめまいの感覚は強くなる気がする。演技を素直に楽しみつつも、頭の別んとこでは「すげえええええ」って思いながら観てる。そういう楽しみ方は邪道かなとも思うけど、その切り離せなさがやっぱり面白いんじゃないかと思うんだよなあ。ドキュメンタリー的なアイドルとかにも近いのかもだけど。でも重要なのは、ドキュメンタリー的な楽しみが成立するためには、前提として、作品がそれ自体でちゃんと面白いということが大事だということ。知り合いとしてでなく客として普通に自然に楽しめるからこそ、知り合いがそういうクオリティのものを作ったということにさらに驚きを覚えられるというか。おいおいしっかりプロじゃんよ、っていう。なんかそんな風にして楽しんでました。

やっぱり目の前で友人がキャラクターを宿してるところを観るのには、独特の感慨がある。過剰なキャラクターを自然に演じるのってほんとすごいよな。あれはあの作品の中に置かれて、舞台の上で演じて初めてキャラクターになりうるんだろうから、たくさんの人のサポートがあって初めて機能するんだろうし、役者自身もめちゃくちゃ練習するんだろうなあ、とか色々想像してしまった。だって数年前は、こんなに素直に圧倒されてなかった気がするし、まだキャラクターというより生身の人間ぽかった気がする。生身であることと自然であることは似ているようでまったく違うのだよなあ。なんかそんなことを心底思った。
彼らの芝居を見るのはたぶんこれで最後なんだけど、それが本当に惜しい。いやみんな持ちキャラみたいなのがどんどん出来上がっていて、一つの芸として何か形になっていて、それが観ていて本当に面白いしもっと観ていたいなあとか。まあでもDVDはしっかり買う予定。

そういえば作品の中身にまったく触れてなかった。いや素晴らしいバッカーノぶりだった。w
どうなってしまうんだというスリルが絶妙に笑いを生む。笑いを生み出すギミックは、大筋のテーマにもがっつり絡んでいる。けど一つ一つのギャグや掛け合いや展開は、それ自体で独立して丁寧に作られているため、予定調和的退屈さとも無縁。断絶、断絶の連続に振り回され、まったく先が読めない。いや、厳密に言えば絶対に読めているはずのゴールへのルートが、ひたすら妨害され脱線し、期待と不安が煽られる。一晩開けて思い出しつつ、ようやくそのことが理解できる。自分がどういう体験をしていたのかが理解できる。観ていた最中は、ジェットコースターに乗ってるのとほとんど変わらない、無抵抗状態で振り回されっぱなしだった。ギャグを展開させる装置と、ストーリーを展開させる装置が重なってるっていうのが面白さなのかなあと思う。(一応)文学畑の人間的としては、舞台の制約が生み出すこういう遊びにとても惹かれる。バックステージコメディという形式も関係してるのかも。さっきの演技の話とも被るけど、素朴にゲラゲラ笑いながらも、頭のどっかでは「どんだけ練られてるんだよ」って終始圧倒されてた。ずっとすげーすげーって思いながら見ていた。

あとは、テーマも好みだった。前作、前前作からずっと反復されている挫折や諦めや野心のテーマですね。シリアスにストレートに扱いすぎると、どうしても過度に自己言及的でイタくなってしまうと思うんだけど、コメディとしての骨組みの強さがうまくバランス取っているように感じた。どうやったら身勝手にならず潔く自分の選択を肯定していけるのかみたいなことだけど、それをコメディというサービス精神の塊みたいなパッケージで出すからこそ説得力が出るのかなーとか。スマートでかっこいいなあと思った。本音を言えばちょっと悔しかった。w

同級生がそうやって爪跡を残しているのを見て、ああ自分も頑張らねばなあと思ったですよ。ハックス風に言えば「こうしておる場合ではないですよ!」的な。
そんな感じで、とても興奮した舞台でした。面白いよねえ演劇。

レトリカの狂騒

レトリカの狂騒@11月18日文学フリマ - Togetter

久々に読み返したら胸が熱くなりました。やらかしすぎている。
これが2012年11月の半ばごろなので、もう8ヶ月くらい経ってるのかな。
8月には企画会議をやっていたと思うので、その意味では1年くらい経ったのか。うわあ。

小学生のころ、放課後毎日缶蹴りをしていてとても楽しかったんだけど、同時に「缶蹴りが楽しすぎてやめられないのではないか、一生缶蹴りをし続けるのではないか」と怖くなったりもした。あの頃は将来のこととか何も考えずに毎日生きていて楽しかったなあ。缶蹴りをして金を稼げるのが一番良いんだけど。

振付

ご無沙汰。
最近、韜晦について勉強中です(?)

そういえば、「つらみ」のエントリがまた結構読まれているらしい。エゴサーチによくひっかかる。
ちゃんと書けば、それなりに末永く読まれるのだな。
「-み」の表現を知らない人が、RT等で流れてきたあのエントリを読んで初めてその存在を知る、といった逆流現象なども起きていて、興味深いなーと他人事のように思ったりしている。


今回は、魔王エンジェルのMMD動画に感動したのでそれを貼ります。
【MMD】魔王エンジェルにNostalogicを踊ってもらった【修正版】 ‐ ニコニコ動画:Q

これ、ほんとすごいですね。
振付とカメラワークがすんごい。で、調べたら振付はプロの方だった。
何やら、人間のダンスのモーションを取り込める仕組みがあるらしく、その元の動画も紹介されていた。
【Nostalogic】Yumikoさんをトレースしてみた2(最終回)【MMD】 ‐ ニコニコ動画:Q

ダンスの振付って、どうやって共有したり、ノウハウ継承したりするんでしょうね。
舞踊譜というのもあるらしいけど、どういう単位で分節化してるんだろうとか、興味が尽きない。
何か手掛りになるかと思って、ちょっと前に話題になった『IDOL DANCE!!』ポチりました。

ラブライブのダンスもすごいんですが、あれはももクロの振付担当でもある石川ゆみ氏が作っているらしいですね。これまたびっくり。
LoveLive! 2nd主題曲 -Snow halation - YouTube
Love Live!【School Idol Project】~Wonderful Rush~ [μ's 5th Single Album] - YouTube

以前から楽譜にはかなり関心があったけど、舞踊譜というのも面白そうなテーマだなと思った。
良い感じの文献が見つけられたら、一気に勉強したいなー。

「つらみ」の分析

名詞化接尾辞「-み」についての仮説色々。何度か追記しました。

今年のはじめくらいからよくみるようになった「死にたみ」「つらみ」「ねむみ」といった表現について、接尾辞の観点から色々考えてみました。
僕のTLでこの表現そのもののニュアンスが話題になったこともあって、ちょっと気になっていたので。
1は分析道具の紹介なので、分析結果だけ関心ある人はいきなり2から読んでもらってもかまいません。


1 名詞化接尾辞「-み」の生産性と特徴について

先ほど挙げた例で使われている表現の共通点は、形容詞(助動詞「-たい」も含む)に名詞化接尾辞「-み」を付与したものだということ。この派生過程自体は、通常の「-み」の用法と同じであり、特に違反性はない。例えば「あたたかみ」「赤み」「苦み」などの表現は一般的に用いられており、また独立した語彙として辞書に記載されているものもある。なぜ、一見同様の派生条件を持っているにもかかわらず、派生可能な語と不可能な語があるのか。

・生産性と意味的特徴:「-み」と「-さ」の比較
「-み」と同じ名詞化接尾辞でよく比較されるものとして「-さ」が挙げられる。比較することで「-み」の特徴を浮かび上がらせてみる。

「-さ」の特徴
1 語彙的側面の情報
・「-さ」が接続するものを名詞化する。「-さ」は、語彙的意味を添えないが、文法的機能に関与する。
・これらの語基は状態性をもつ
2 文脈的側面の情報
・「既知情報の名詞化」と「スクリプトからの抽出」の二つの派生パターンがある。とくに前者をもとに臨時造語が行われる。(ややこしいし関係無いので詳細は省く)
(黄(2004)より)

まとめると、「-さ」はほぼ形容詞(と形容名詞)にのみ付き、また接尾辞それ自体の意味というのは持っていない。名詞化を行う機能によって、「こと」や「程度」といったニュアンスを付与するのみ。ほぼすべての形容詞につくことが可能であり、きわめて生産性の高い接尾辞であると言える。文脈的側面の特徴からもわかるように、意味的機能はほとんど文法的機能からそのまま導かれている。総じて、純粋な文法的要素としての性格が強いと言える。

続いて「-み」の機能を確認し、比較してみる。

「-み」の特徴
1 語彙的側面に関する情報
・「-み」が接続するものを名詞化するが、接続できる語基の範囲が狭い。
2 文脈的側面に関する情報
・対象から把握される主観的な状態や、感情・感覚を、総体的・全一的な状態概念としてあらわす。
(黄(2004)より)

現代において「-み」の意味領域や適用範囲は狭まっており、その機能を単純に一般化することは難しい。しかしそのことは、「-み」が文法的というよりは語彙的・意味的な機能を強く持っていることを示している。「=さ」が独立に辞書に記載されていることがほとんどない一方で、「=み」はいくつか記載されている、といった事情からもそのことが伺えそう。
「-み」は意味においては、感情や感覚を、主観的に感じられたものとして表現するようなニュアンスを持っており、「-さ」が客観的なニュアンスを持っていることと対照をなしている。このことは例えば、「赤さ/赤み」や、「やわらかさ/やわらかみ」といった表現の用例を比較することでだいたい理解できる。
その他の文献でも基本的には上記のような整理を行なっているが、独自の論点が加わっているものもある。杉岡(2005)は接尾辞を、意味的変化が主であるものと、文法的機能(品詞転換)が主であるものとに分けた上で、前者について、「これらの接辞は特定の意味をもち、意味的な整合性があればベース語の品詞を厳しく限定しない傾向が見られる。」と述べている。これらの例としては、「真剣み」や「現実味」などの名詞派生や、「とろみ」「ザラみ」などの擬態語派生などが挙げられている。これは、「-み」のスラング化を説明する上で重要な指摘である。「-み」は生産性が低いが、拡張的な付加の自由度は高い。「-さ」が品詞を超えて付加されることができないのに比べると、その差異は際立っている。意味の面についても、「-み」は感覚に対する命名であるという表現を行なっており、造語性を説明しうるものとなっている。
藤井(2008)は、「-み」の特徴である主観的な捉え方の反映を、さらにいくつかに分類している。まず、接尾辞によって表わされる主体の捉え方を「ウチ/ソト」に分け、「-み」を「ウチ」の接尾辞としている。この「ウチ/ソト」の区別は、主観的・心理的な内外だけでなく、物理的・感覚的な内外にも適用される。また、「有界性」という性質も導入している。これは本来名詞や動詞の性質であり、形容詞等には用いられないが、形容詞を名詞化する接尾辞を分析する際には有効である。有界性を持つ語は、対象の輪郭がはっきりとしており、具体的な形のイメージがなされ、具象化される。
以上が接尾辞「-み」の一般的な特徴である。文法的な特徴としては、生産性は低いが、拡張的な付加の自由度は高く、品詞を超えて名詞化することができるという点が挙げられる。意味の面では、「-み」は主観的・感覚的な性質を付与し、また、「ウチ」的な性質や有界性も付与する。


2 ネット(というか主にTwitter)上にみられる「-み」の新しい用例

・「「-み」スラング」の用例
ここからが一応本題。実際に分析するにあたって、「つらみ」とかの用例はTwitter検索で拾った。ので、サンプルの問題とか色々あると思うけどその辺は大目に見てください。
手順としては、まず『現代形容詞用法辞典』に収録された代表的な形容詞のうち50個を選び、「-み」を用いて名詞化し、用例を調べる。そのあと、Twitter検索で用例を拾い、同時に『大辞林』で正式な派生形を確かめた。後者に記載されておらず、Twitter等で複数回以上用いられている表現を、便宜的に「「-み」スラング」と名付けておく。
今回「「-み」スラング」として確かめられたものは、以下の9例。ちなみに検索したのは2012年11月のはじめごろで、結構前だから正確な日時は覚えてない。検索したときに出てきた用例をそのまま右に書いておいた。(けどこういうのって勝手に転載しちゃあかん気もする…少しだけ改変しておいたほうがいいだろうか。)

「つらみ」:「教室電波入らなくてつらみ。」「フェイスブックに会社の内定式に行ってきましたみたいな記事が溢れていてつらみ。」
「やばみ」:「体調がやばみ」「卒論やばみ」「雨やばみ」
「ねむみ」:「火曜日にしてなんだこのねむみは」「猛烈なねむみ」
「きつみ」:「授業きつみ」
「だるみ」:「午前中特有のだるみ」「留年したくないけど今世紀最大のだるみ」
「こわみ」:「バイト先に電話すんのこわみ…」「英文こわみ。。。」
「しんどみ」:「歩くのしんどみ」
「おいしみ」:「近所のパン屋の塩あんぱんのおいしみ」「はぁーーーーーーうどんおいしみ」
「かわいみ」:「サイクロン掃除機のなかでくるくるする埃たちのかわいみ」「日直って響きのかわいみ」

また、重要な用例として助動詞「-たい」の名詞化も挙げられる。こちらは、網羅的に把握することはできていないが、確認した限りでは「帰りたみ」「行きたみ」「食べたみ」「死にたみ」「~したみ」「~やりたみ」といった表現が使用されている。最後の2例に関しては、「ライヴやりたみ」「カラオケしたみ」といったように際限なく派生することが可能である。

・「「-み」スラング」の機能とニュアンス
こうした表現の機能やらニュアンスやらを分析してみたい。ここからは完全に仮説。
まず、今挙げた9例(+1例)の共通点をあぶりだす。形式的な面で言えば、これらの表現は句接辞的な用法と、形容詞の叙述に近い用法の2つに分けられる。

・句接辞的用法(「-さ」で代用可:名詞句っぽい)
「サイクロン掃除機のなかでくるくるする埃たちのかわいみ」
「猛烈なねむみ」
「午前中特有のだるみ」

・叙述的用法(「-い」で代用可:「AはBである」の形。「Aはつらい。」「Aはしんどい。」みたいな)
「教室電波入らなくてつらみ。」
「歩くのしんどみ」
バイト先に電話すんのこわみ…」

意味的な側面では、これらの表現(特に叙述的用法)は対話相手への投げかけではなく、ひとりごと・ぼやき・つぶやき・感想のようなニュアンスを持っている。文末に「…」や「。。」といった、ため息のような表現をつけることが可能な場合が多い。また、句接辞的用法ではプラスとマイナス両方の表現が見受けられるが、叙述的用法にはプラスの表現が見受けられなかった。このことは後ほど取り上げる。

さらに、1で行った「-み」の分析結果を応用しながら、「-い」「-さ」との比較によって、「「-み」スラング」の持つニュアンスをより正確に捉えてみたい。「ねむみ」というスラングを例にとって分析すると以下のようになる。比較のために、「-み」の正しい(辞書に記載された)表現である「あまみ」も添えておく。

あまい(叙述・言明):あまさ(客観・具象性):あまみ(内的感覚・有界性)
ねむい(叙述・言明):ねむさ(客観・具象性):ねむみ(内的感覚・有界性)

ひとつひとつ比較していこう。
「あまい」「ねむい」の場合は、話者が感じた主観的な性質を、話者自身の発話という形で叙述・言明している。その意味で、話者との結びつきが強い。
「あまさ」「ねむさ」となると、そうした性質をより一般化・抽象化し、客観的に捉えたような表現となる。また、性質が具象性、モノ性を持ち、程度や多寡を表すことができるようになる。
では、「あまみ」「ねむみ」の場合はどうか。まず、「ねむい」の場合と同様、話者の感じた主観的性質から出発している。しかし、そうした主観性は、有界性によって話者から切り離され、独立したものとしての性質を持つ。
その結果、「ねむみ」を始めとする「「-み」スラング」は、奇妙な実在性や、感覚の手触りのようなものを獲得する。たしかに主観に感じられたものでありながら、どこか独立したところがあるようなニュアンスを持つ、と言ってもいい。「つらみ」「ねむみ」「しにたみ」などに感じられるなんとも言えないおかしみのある感触は、そのような主観性と有界性の一見矛盾した共存によって生み出される。もちろん、通常の文法規則に反した表現が用いられていることによる違和感というのも、そうした奇妙な感触を際立たせるのに役立っている。

「「-み」スラング」には、主観的な感覚を結晶化した言葉をタイムラインの流れへと放流していくような感覚がある。「私」という主観から切り離された「モノ」へと感覚や感情を加工することで、そうした感覚を共有物にしようとするような企図があると言えそうだ。用例に挙がっている表現がどれも共感を必要とするようなものであることに注意したい。「「-み」スラング」は、「私」という人格・主体に対する共感を回避し、「私」から切り離された感情・感覚それ自体へと共感を向かわせるような表現と言えるのではないだろうか。そしてそのような感情表現の在り方はおそらく、Twitterインターフェイスが要請するような発話のスタイルに適応した結果、生まれたものなのだろう。


最後はほとんど憶測というか、きれいにまとめようとした感ありますが、一応こんなところで。
反例とか、もっと良い説明の図式があったら、ぜひまとめたいのでコメントなりリプライなりしてくださるとうれしいです。

※追記
動詞の活用であるかもしれないものについては、怪しかった(先生に聞いても判然としなかった)ので省きました。「おかしみ(おかしむ)」「なつかしみ(なつかしむ)」「さびしみ(さびしむ)」等。あとは、語源というか古語の文法に遡ると色々見えてきそうですが、これ以上は暇つぶしの範疇を超えるので…。

※追記2
「叙述的用法にはプラスの表現が見受けられなかった。このことは後ほど取り上げる。」と書いた箇所をすっかり放置していたので、一応追記。
一言で言えば、叙述的用法は「私はこういう状態です」と表明する用法。で、それを言いたいんだけど直球で言いたくないから、屈折した表現が生まれたのかなと。「私」や「私の感情」を叙述することへの抵抗感というか。
用例や個人的な実感から推察するに、結局のところ、わざわざ「つらみ」とか「しにたみ」とか使うのって、「つらい」「しにたい」ってそのまま言うのが憚られるからなんですよね。
そのつぶやきを読む人に負の感情が伝染してしまう可能性を考えるとさらにつらくなりそうだし、単純につらいつらい言ってると自分の中でも深刻さが増すような感じがするし。自分自身から負の感情を切り離した上で、それを「軽く」して処理したいっていう気持ちがあるのかなと思います。負の感情をただ吐き出すのでもなく、溜めこむのでもなく、ネタっぽく変換して軽減することで、精神の健康を保つというか。
そういうわけで、「-み」の叙述的な用例にはマイナスなものが多くなる、と。実際、「ねむみ」や「うれしみ」等の、単純にかわいかったりプラスだったりする言い方って、後から派生的に現れてきたような気がする。やっぱり「つらみ」とかは、この辛さ、死にたさをどう処理したものか、という屈折した切実さから必然的に生まれたんじゃないかなと思います。


参考文献
大石強・西原哲雄・豊島庸二編『現代形態論の潮流』、くろしお出版、2005年。
黄其正『現代日本語の接尾辞研究』、溪水社、2004年。
藤井佳子「形容詞名詞化の接尾辞-SAと-MIの違いの認知論的再考察」http://www.princeton.edu/pjpf/2008proPDF/8%20Fujii_PJPF08.pdf