創造工房の「偽装結婚式」みてきたよメモ

何日か経っちゃったしメモ書き状態なんだけど、このまま放置するとまたお蔵入りしてしまうので、一旦放出。あとから文章はちゃんと整えるかもしれない(し、しないかもしれない)。

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昨晩、友人たちの出演している芝居を観てきた。
観ている途中からもう面白さで頭の処理速度が追いつかず、上演が終わってすぐに劇場を出て速攻で帰宅した。とてもじゃないが、顔を合わせて何か言えるような状態じゃなかった。
とにかく面白かったんだけど、何が面白かったのかをぐるぐる考えるのに忙しかった。帰宅して、1時間くらい色々メモして、わかったりわからなかったりして、それで一夜明けた今日もこうして書いている。

最初にもやもやと考えていたのは、自分が感じているこの面白さを、どうやってその友人たちに伝えたものか、ということだった。興奮していて冷静じゃないから、上演後すぐにアンケートに書いたり、ロビーで直接喋ったりするのは難しい。かといって、無理だから伝えない(あるいはざっくりと伝える)というのも微妙かなと思う。僕も雑誌やら企画やら論考やらを外に出したりすることがあるから思うけど、なんか一つやったら絶対そこにレスポンスが欲しい。どんな形であれ感想が欲しいと思う。だから何かしらは目に触れるところで書いた方がいい。だからまあこうして独り言というか自分用ノートっぽくメモすることにした。

別にレビューが書きたいわけでもないし、作品分析なんぞをしたいわけでもないので、結構素朴な言葉づかいをたくさんする。作品が面白かったということが言いたのではなく、この芝居をこんなに面白いと思った人がいますよー的なことが言いたい。この二つは切り離せないものではあるが、しかし別のことだ。
もしかしたら芝居とは本質的にそういうものなのかもしれないが、彼らの舞台は僕にとっては一つの作品である以上に一つのイベントというか出来事である。友人から直接案内のメールがきて、おーあいつも出てんのかとか、またこいつの脚本かー楽しみやとか色々考えて、2000円くらいまでならまあ出せるなーとか思いつつ予約して、普段使わない西武池袋線とかそういうのに乗ってって、着いたら初めての町を適当に歩く。これは一つの出来事であって、作品の消費という感じじゃない。消費と呼ぶには儀式的すぎるというか、作品それ自体を受け取るためにそれ以外のプロセスがたくさん必要になっている。そこが面白いと思う。あんま普段行かない町が多いしね。

高校のときの(つまり、特に理由もなく知り合った)友人が、それぞれの活動をしているのを見るのは妙な面白さがある。体育会の人の試合とかもたまに観に行くけど、やっぱり知り合いがいると楽しみ方が変わる。小劇場なんて友人から誘われなければ行かないから、それもまた物珍しくて笑える。狭さや舞台の近さもそうだし、舞台を区切ってシーンを分けたり、小道具をあれこれ使いまわしたりとか、そういう独特の制約と遊びが面白い。

何を楽しみに観るかは完全に好みだと思うけど、僕はやっぱり役者を楽しみに観ていることが多い。自分と同年代の、別にプロでもなんでもない、大学の授業とかで見かけたりしそうな普通の人が、舞台に立って芝居をして、所作や発話の積み重ねでキャラクターを立ち上がらせている。普段のキャラと演技のキャラクターがだぶって見えて、頭がクラクラする。人はこんなにも、その人らしさを保ったままで、その人ではない何かになることができるのか。自分とそう変わらない学生だという前提があると、そのギャップが生み出すめまいの感覚は強くなる気がする。演技を素直に楽しみつつも、頭の別んとこでは「すげえええええ」って思いながら観てる。そういう楽しみ方は邪道かなとも思うけど、その切り離せなさがやっぱり面白いんじゃないかと思うんだよなあ。ドキュメンタリー的なアイドルとかにも近いのかもだけど。でも重要なのは、ドキュメンタリー的な楽しみが成立するためには、前提として、作品がそれ自体でちゃんと面白いということが大事だということ。知り合いとしてでなく客として普通に自然に楽しめるからこそ、知り合いがそういうクオリティのものを作ったということにさらに驚きを覚えられるというか。おいおいしっかりプロじゃんよ、っていう。なんかそんな風にして楽しんでました。

やっぱり目の前で友人がキャラクターを宿してるところを観るのには、独特の感慨がある。過剰なキャラクターを自然に演じるのってほんとすごいよな。あれはあの作品の中に置かれて、舞台の上で演じて初めてキャラクターになりうるんだろうから、たくさんの人のサポートがあって初めて機能するんだろうし、役者自身もめちゃくちゃ練習するんだろうなあ、とか色々想像してしまった。だって数年前は、こんなに素直に圧倒されてなかった気がするし、まだキャラクターというより生身の人間ぽかった気がする。生身であることと自然であることは似ているようでまったく違うのだよなあ。なんかそんなことを心底思った。
彼らの芝居を見るのはたぶんこれで最後なんだけど、それが本当に惜しい。いやみんな持ちキャラみたいなのがどんどん出来上がっていて、一つの芸として何か形になっていて、それが観ていて本当に面白いしもっと観ていたいなあとか。まあでもDVDはしっかり買う予定。

そういえば作品の中身にまったく触れてなかった。いや素晴らしいバッカーノぶりだった。w
どうなってしまうんだというスリルが絶妙に笑いを生む。笑いを生み出すギミックは、大筋のテーマにもがっつり絡んでいる。けど一つ一つのギャグや掛け合いや展開は、それ自体で独立して丁寧に作られているため、予定調和的退屈さとも無縁。断絶、断絶の連続に振り回され、まったく先が読めない。いや、厳密に言えば絶対に読めているはずのゴールへのルートが、ひたすら妨害され脱線し、期待と不安が煽られる。一晩開けて思い出しつつ、ようやくそのことが理解できる。自分がどういう体験をしていたのかが理解できる。観ていた最中は、ジェットコースターに乗ってるのとほとんど変わらない、無抵抗状態で振り回されっぱなしだった。ギャグを展開させる装置と、ストーリーを展開させる装置が重なってるっていうのが面白さなのかなあと思う。(一応)文学畑の人間的としては、舞台の制約が生み出すこういう遊びにとても惹かれる。バックステージコメディという形式も関係してるのかも。さっきの演技の話とも被るけど、素朴にゲラゲラ笑いながらも、頭のどっかでは「どんだけ練られてるんだよ」って終始圧倒されてた。ずっとすげーすげーって思いながら見ていた。

あとは、テーマも好みだった。前作、前前作からずっと反復されている挫折や諦めや野心のテーマですね。シリアスにストレートに扱いすぎると、どうしても過度に自己言及的でイタくなってしまうと思うんだけど、コメディとしての骨組みの強さがうまくバランス取っているように感じた。どうやったら身勝手にならず潔く自分の選択を肯定していけるのかみたいなことだけど、それをコメディというサービス精神の塊みたいなパッケージで出すからこそ説得力が出るのかなーとか。スマートでかっこいいなあと思った。本音を言えばちょっと悔しかった。w

同級生がそうやって爪跡を残しているのを見て、ああ自分も頑張らねばなあと思ったですよ。ハックス風に言えば「こうしておる場合ではないですよ!」的な。
そんな感じで、とても興奮した舞台でした。面白いよねえ演劇。